スターリンと俺とロックの起源

 さて、当方、明日サークルのライヴでスターリンをやらせていただくことになりました。乞うご期待。

 スターリンと言えばあれですね、忘れもしない俺の高校二年生の春、あのころ女子にちやほやされることとメロコアのキャッチーなリフとあの素晴らしい神アニメ*1のおかげで万年トリップ状態の幸せな俺を一瞬にして絶望大快楽に追い込み、それ以降突然キレて罵詈雑言を叫びだしたりそうかと思えば自分の殻に閉じこもって泣き出したり、退行してバタバタ暴れだすかと思いきや愛想のよさを見せたり、その他酔って乱暴になったり残酷になったり、デスレコーズ社長の如く意味なく“f**k”と言ったり、電波な妄想を突如述べたり、「日本なんて分裂すりゃいいんだ」とか言ったり、「暴動を起こせ」とか言ったり、挙句の果てには「俺が日本人なのかどうかも知らない」とまで述べ出したり、というどう大目に見ても基地外で電波な精神異常者に俺を作り変えたのはこのバンドです。

 と言っても別にスターリンが悪いわけではなく、むしろ俺はこれで幸せです。いや社会不適合者であることには変わりはありませんが、別にそんなただの精神状態には興味がありません。いやこれはまあ精神異常者の妄想だと思って生暖かく見守っていただけばもうどうだっていいです。*2

 スターリンを聴き、そして実際に自分で歌ってみて気づいたことではあるんですが、スターリン、いやそれに限らずロック全般に関して言えることだとは思うのですが、ロックと言うのは決してクラシック音楽の延長ではなく、かといってアメリカ南部のリズム・アンド・ブルースの発展系とも言い切れず、それではいったい何なのかと申しますと、つまりは一種の“見世物”なのではないかと思うのですね。

 まあたとえばギター、あるいはベースの早弾きひとつとっても、それはそれで音楽を通り越して一種の大道芸となっているのはまあわかりやすいことです。PVだってさすがに場所は広場ではなくテレビ画面になってしまいましたが、突き詰めて言えば路上劇の延長とも言えるでしょう。観客の参加を容認するライヴはどうか?これは全く、ある種の群衆劇とも言えますね。ポゴダンスは?モッシュは?クラウドサーフは?これはまあ、市民参加のダンス、つまりカーニヴァルや日本の盆踊りと何か共通するところがある、とも言えるでしょう。それではロック・アーティスト達の一般市民とは大いにちがう衣装は?これはおそらくカーニヴァルや祭りなどの仮装と共通点があるんじゃないかな、とも思います。

 まあここまで来てようやく「ならパンクロック、ハードコアパンクのあの狂い様は何だ?」という疑問にたどり着くわけです。具体的にはイギー・ポップがステージ上で行った自傷行為は?田口トモロヲ(元ばちかぶり)の炊飯器に排泄する行為は?遠藤ミチロウの臓物投げは?GGアリンの排せつ物にまみれる行為は?セックス・ピストルズ*3喧嘩同様のライヴは?という風に。だいたいパンクロックの荒々しさの、悪く言えば狂い様のどこが見世物となりうるのか?それはまあ俺も以前まで考えてました。

 その疑問を解決するにはやはりロックをはるかに超えた西洋の文化史についてたどることになるわけで、そうすると一つの答えにたどり着くわけです。“人間の狂気を扱う見世物”べドラムに。

 このべドラムってのがいったい何かはベドラムなんかを参照していただくことにして、まあとどのつまりなぜべドラムと変態パンクロックが関連するのかと申しますと、どちらにせよ“狂気を見世物とする行為”となっている、というわけです。この二つの相違点は日常からの狂気であるか音楽の中での狂気であるか、そして狂気が病気なのか演じているのか、ということではありますが。

 まあパンクロックのすべてが狂気をはらんでいるわけではなく、たとえ含んでいなくてもそれはパンクロックであり、大体もう市民参加のカーニヴァル的なロックがパンクロックとしてのあり方(?)を示していると俺は考えますから、別に「狂気と奇行がパンクロックの原点であり基本だ」などと申すつもりはありません。あえてまあ、付け合わせとして。

 でもやっぱり、「狂ったパンクロック、あるいは音楽」なんかを目指す人はシド・ヴィシャスの生き方なんかよりまず精神病患者の症例なんかを見た方が良いのではないか、と思いますが。ですがこの俺の姿勢からしてすでに差別的ですよねえ?

 まあいいや、とにかく俺は(自称)精神異常者であるからして、明日のライヴでは精一杯狂気を演じて来ようと思います。以上。

*1:このブログの昔からの読者なら言うまでもない、AIRですよ

*2:これ自体が精神異常者の書く文章なんじゃないの…か?

*3:特にシド・ヴィシャス